脇坂併呑子(正興)
学問・武術・諸芸に通じ、芸苑と称された伊賀風山流の大成者
脇坂併呑子は、初字を番蔵、名を正興といい、その居を拱星堂と呼びました。貞享元(一六八四)年、伊予松山に藤本正武の次子として生まれ、甲州流や三極流などの兵法を学びました。のちに伊賀風山流を兵藤風偃子に学び、さらに、享保元(一七一六)年には当時山城淀城下に居住していた伊賀風山子を訪れ、直接、正伝を授けられました。
また、当時、松山城下では、脇坂忝慶(名を正光、初代五郎右衛門)が柔術、槍術、剣術などを教授する道場(脇坂道場)を開いていましたが、病身になり、実子の傳之丞(正因)がいまだ若年であったことから、藩侯の命によって併呑子が養子となり、二代目五郎右衛門を称して、その家芸と道場を受け継ぐことになりました。
脇坂併呑子が軍師を務めた伊予松山城
脇坂併呑子は人となり魁偉倜傥・聡慧堅忍にして、好んで国史を読み、すこぶる歌詠に長じ、弓・炮・剣・馬・棍・槍・拳の武術はもちろん、書画・医下・算候・鍛冶・描金・刺繍等の諸芸に通じ、世人はこの多芸をもって「芸苑」と称したと伝えられています。享保二十(一七三五)年には、伊予松山藩の軍師となり禄二百五十石を給せられました。
伊賀風山流の伝承者として、多くの門人を育成するとともに、享保五(一七二〇)年には、高弟である鈴木似水子(逐良)に兵法授与之指南の証を授けるなど、伝授の体系や制度の整備に力を注ぎ、伊賀風山流が近世兵法流派として後世まで続く礎を築きました。
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