伊賀風山子(武寛)|伊賀風山流 兵法教室

伊賀風山子(武寛)

和漢の兵法を極め、兵法四天王と称された伊賀風山流の創始者

伊賀風山子は、名を武寛、字を平蔵または主水といい、のち次大夫(治大輔)と称しました。龍天または林火野とも号し、その居を與雲堂と呼びました。正保元(一六四四)年、伊勢の武士の家に生まれ、その姓が示すように、先祖は伊賀の出身で服部半蔵の縁者であったと伝えられています。また、「風山」という号は、孫子軍争篇に由来し甲州流兵法で重んじられる「風林火山」から採られています。

当時、伊勢桑名藩には、甲州流兵法の大成者である小幡景憲から、その正統を受け継いだ杉山小太郎(後の八蔵公憲)が仕えていましたが、若年であったため、景憲の縁者である堀江弥五右衛門(直張)が後見を務めていました。伊賀風山子は、十五歳の時、堀江弥五右衛門の弟子となり、甲州流兵法の奥義をことごとく許可され、その後、楠流、小笠原流、その他の日本兵法を極めました。

さらに、同藩の老臣服部半蔵(徳川家康に仕えた服部半蔵正成の孫)からも兵法書を授けられ、孫子から武備志に至る中国兵法を会得しました。寛文五(一六六五)年、二十二歳の春より、これまでに学んだ兵法の要点を整理するとともに自身の工夫を加えて、『経権提要』九冊十一部五十二篇を書き始め、寛文十(一六七〇)年、二十七歳の年にこれを完成させました。当流では、この年をもって流派の創流の年としています。

本郷湯島

伊賀風山子の兵法私塾があった本郷湯島

延宝四(一六七六)年、三十三歳のとき、流派を天下に広めるため、江戸に出て本郷湯島に兵法私塾・興雲堂を開きました。天和二(一六八一)年、十二月二十八日、天和の大火により興雲堂も被災しますが、神田明神下に移転して兵法教授を続け、山鹿素行、長沼澹斎、堀山宗閑とともに兵法四天王と称されるに至りました。また、この間、伊勢安濃津藩の藩主である藤堂高久に招かれ、三年間、軍師を勤めています。

その後、美濃加納藩の藩主である松平光永に軍師として迎えられ、天和三(一六八三)年、四十歳のときに加納に移りました。元禄五(一六九二)年には、美濃八幡城主の遠藤常久の城地が没収された際の対応に当たった功績によって老職次に列せられ、宝永五(一七〇八)年三月には、京都大火により炎上した皇居の再建に携わるなど、藩政の中枢で活躍しました。同藩の転封によって、正徳元(一七一一)年には山城淀、享保二(一七一七)年には志摩鳥羽に移り、享保三(一七一八)年九月七日、七十五歳で病没しました。

伊賀風山子の死後、その家は後継者に恵まれず、まもなく断えてしまいましたが、伊賀風山流の教えは、その第一の高弟である兵藤風偃子に受け継がれました。

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